2025.08.09
久米村時代の年中行事(旧七月の行事 )
炎暑が本格化する旧暦七月の久米村には、静かな祈りと祖先を敬う心が、暮らしの隅々にまで息づいていました。七夕に始まり、盆の三日間――ウンケー、ナカビ、ウークイへと続く日々は、この世とあの世とがつながる特別な時として、人々は身を慎み、心を込めて先祖を迎えていました。
買い出しで賑わう市場の熱気、家中で支度に追われる忙しさ、そしてウークイの夜に静かに揺れる送り火の灯り、それらすべてが、家族の絆と祈りの姿を、そっと映し出していました。
記憶と祈りが交差する七月の行事を紹介します。
タナバタのお参り
旧暦七月七日は、久米村では「タナバタ(七夕)」として、墓を清める日とされています。日中の強い日差しを避け、早朝や夕方に、家族総出で墓地を訪れます。長男家族だけでなく、二男・三男の家族もともに参加し、それぞれが先祖を祀るために墓を清掃しました。
清明からおよそ三か月、足を踏み入れるのもためらわれるほどの夏草が生い茂る墓地の、草を刈り墓前を清め、持参した菓子や花を供えて、祈りを捧げました。また、この日は小さな修繕や補修をしても差し支えない日とされ、墓所の点検にもあてられました。
久米村では、二男・三男のために、本墓の左右に「カンタナ(石の棚)?」を設け、そこを供養の場とする家もありました。墓地が広い家では、本墓の左側に脇墓を築いて、それぞれの家族が祈りを捧げていました。
なお、中国の七夕では、日中に衣類を曝し、夜に瓜を供えて牽牛・織女の星を祀る風習があるといいます。また、女性が月光のもとで針に糸を通し、技芸の上達を祈る習わしもあるそうですが、久米村ではこうした風習は見られず、七夕はあくまで「墓参りの日」として伝わっています。
クニチマチ(九日市)
旧暦七月九日は、「クニチマチ(九日市)」と呼ばれるお盆準備の市が立つ日です。この日を目当てに、旭町(現在の那覇バスターミナルから漫湖にかけての地域)周辺に、近郊の農家が甘蔗(ウージ)や西瓜、牛蒡などを持ち寄り、早朝の暗いうちから市が開かれていました。旭町一帯は、旧盆前のにぎわいであふれ、公設市場もこの日ばかりは平常の数倍の混雑となりました。
主婦たちは、まだ夜の明けきらぬ時間に出かけ、市場の目玉商品をいち早く選び取るのが「アヤーター(主婦)」の心得とされていました。 甘蔗は五束、六束とまとめて購入され、そのうちの一束は必ず子ども用に用意されたといいます。
西瓜やアンダリブーチャ(アダンの実)などとあわせて荷車に積み、自宅へと運び込みました。その足で公設市場に立ち寄り、線香や蝋燭、紙銭などの供養用品も買い揃え、すべてをこの日のうちに整えるのが習わしでした。特に、子ども用に別途甘蔗を用意するのは、本番用に手を付けさせないための心配りでもありました。
ウンケー(御迎え)
十三日は「ウンケー(御迎え)」の日で、十五日までの三日間が祖霊を迎える「孟蘭盆(うらぼん)」の期間にあたります。
この日は朝から、家中が準備に取りかかります。霊前を清め、供え物として甘蔗などを整え、神位(位牌)は主人と長男が中心となって清めます。香炉や盃台といった道具の清掃は、二男以下が分担します。女性たちは、主婦の指示で供え物の用意や三日間の下ごしらえを進めていきます。
夕方になると、男たちだけで線香を持って墓参に出かけ、祖霊の道案内をします。帰りは寄り道をせず、まっすぐに家へ戻るのが決まりです。家に着くと、門の左右に「トゥブシ(松明)=松の心材をうすく割ったもの」を灯し、家族全員で門前に香を焚いて拝みます。その香を霊前の香炉に移し、再度手を合わせて祖霊を迎え入れます。
霊前には孟蘭盆のお供え物だけでなく、今晩のお膳や燭台などがすでに整えられており、十三日のお供えには、豚肉入りの雑炊(ジューシー)と酢の物、酒、お茶、燭、香が供されます。普段の霊前とは異なり、卓が設けられ、帷(とばり)や卓裙が掛けられ、燭がすべて灯されることで座敷は明るくなり、家族も霊前の間に集まって夕食を共にします。
まるで「御元祖(ウグヮンス)」がその場にいらっしゃるかのような、あたたかく厳かな空気が漂います。
翌日・翌々日は、祖霊をもてなす「ウトゥイムチ(歓待)」の日となり、現世(イチミ)は目の回るような忙しさを迎えるのです。
十四日(ナカビ)
十四日は、お盆三日間の中日「ナカビ」にあたります。久米村ではこの日、御元祖(ウグヮンス)があの世のお寺に参拝なさる日と考えられており、朝・昼・晩の三度の膳も、その他の供え物もすべて「精進料理」で整えるのが習わしでした。
膳の内容は家庭によって多少の違いはあるものの、朝はお粥、味噌汁、酢の物や和え物に加え、田芋やチンヌク(里芋)などを添えます。昼食もほぼ同様の構成で、食後には団子や冷やし素麺などが添えられることもありました。晩には、各家庭の主婦が早朝から準備を進め、腕によりをかけた正式な精進料理を用意します。この日は、お酒を供えないという決まりが守られていました。
また、親戚や縁者による「進香(シンコウ)」も多く、身内の二男・三男の家族も集まって膳を囲み、場はいっそうにぎやかなものとなります。
ウークイ(お送り)
十五日は、お盆の最終日「ウークイ(お送り)」の日です。この日は朝から多くの客が訪れ、御元祖(ウグヮンス)へのもてなしも最高潮を迎えます。 朝・昼の膳のほか、アマガシ、冷やし素麺、田芋やチンヌク(里芋)を使った料理など、山海の珍味を取りそろえた膳が供されました。
夕方の膳には、豚の汁物(シシの汁)をはじめ、牛蒡のイリチーや餅を大皿に盛りつけて霊前に供えます。特に餅は大きな唐物皿に盛られ、左右に美しく飾られるのが特徴でした。
この日も「進香(しんこう)」の客が多く、訪問は朝から夜遅く、十時・十一時を回るまで絶えることはありませんでした。
深夜、家族全員が揃ったのを見計らって、「お送り」が始まります。家長が祭主となり、霊前に酒を供え、香と紙銭を焚きます。その香を手に家族全員が外に出て、四辻まで歩き、墓の方角に向かって香を置き、静かに手を合わせて祖霊を送り出します。
こうしてウークイは厳かに締めくくられます。家に戻ると、供え物を下げて果物など軽く口にし、しばらくは四方山話に花を咲かせます。寝につくのは深夜一時、二時を過ぎることも珍しくありませんでした。
明けて十六日は「墓参り」で、お盆行事の締めくくりです。アチハティ十月(あきあきする十月は四、七日もある十月)アッタル ブン タダ三日(あたらおしいお盆はただの三日)とお盆をおしんで嘆いた御仁もあったとか。「あたらおしいお盆はただの三日」と、お盆の終わりを惜しんだ人の言葉も残されています。「ウークイヌナーチャヌグトーサ(お送りの翌日のようだ)」の言葉どおり、翌日の那覇の街は人通りもなく、静まり返っていたといいます。
トゥブシ(とぼし=灯)
昔は「トゥブシ(灯)」と呼ばれる松明が重要な役割を果たしていました。十三日のウンケー(御迎え)でも用いられるこの灯火は、松の根や脂の多い心材(赤味)を細く割って作られたもので、那覇では古くから生活に欠かせない明かりとして使われてきました。
昭和初期までは、東町の公設市場にも「トゥブシ市」と呼ばれる一角があり、多くの人々に求められていました。電気が普及する以前の台所や、祝い事の調理場などでは、このトゥブシが唯一の灯りでした。
かつて琉球を訪れた唐の冊封使が、「琉球は親雲上(ペーチン)と松だらけ」と驚いたという逸話も残されています。しかし、親雲上は廃藩により姿を消し、松は戦争中にテレビン油(松根油)の原料として伐採され、砲爆撃の影響もあってほとんど絶滅に近い状態となりました。 また、七月は「ブンヂリの月」とも呼ばれ、借金や借財をお盆入りの前日までに清算するのが習わしとされていました。
霊を迎える前に、現世の整理をつけておくという精神が、暮らしの中にも深く根付いていたのです。
旧暦七月の久米村では、祖霊を迎え、もてなし、送り出すまでの一連の行事が、日常の中に自然に組み込まれていました。それぞれの行事には決まった作法と意味があり、家族や親族が役割を分担して準備や供養にあたっていました。
七夕の墓掃除に始まり、九日市での買い出し、ウンケーからウークイまでの三日間の供養、そして送り火によるお見送り。さらに、トゥブシを使った灯火や、ブンヂリの習慣に見られるように、精神的なけじめや生活の知恵も重視されていました。
こうした年中行事は、単なる形式ではなく、地域の暮らしの中に根づいた文化であり、祖先とのつながりを保ち続けるための大切な営みでもありました。