2025.07.12
久米村時代の年中行事(旧六月の行事 )
炎暑を迎える旧歴の六月、梅雨が明け、いよいよ夏本番を迎えるこの時期、久米村の暮らしもまた、暑さとともに力強く息づいていました。
一年の中でも特に陽光が強まる月に感謝を捧げる「六月ウマチー」、賑わいを見せた「天尊廟の祭礼」、そして食文化や行商の声が色濃く残る「ウイミ(折目)」など、多くの風習とともに過ごす大切な月でもあります。
太陽の熱を味方に、家財を干し、「曝書(バクショ)」の慣わしもこの月の風物詩です。古き良き時代の久米村では、暮らしの隅々に季節の知恵が息づいていました。
今回は、そんな旧六月の久米村の情景を、懐かしい記憶とともに紐解いていきます。
六月ウマチー
旧暦六月十五日――
この日は、農作物の実りを祈る「ウマチー(祭)」の日。
久米村では、五月に続いて六月にもウマチーが執り行われ、宗家(ムートゥヤー)の神棚を清め、家族や親族が集り、豊作と無病息災を願い神前に手を合わせました。
本来、五月ウマチーに参拝するのが通例でしたが、さまざまな事情でそれが叶わなかった家庭にとって、この六月ウマチーは「必ず参拝すべき日」として重んじられていました。
そのため、六月ウマチーはもう一度神に感謝と祈りを届ける大切な“機会の補い”でもあったのです。
天尊廟の例祭
旧暦六月十四日、久米村の人々にとって楽しみのひとつであったのが、天尊廟で行われる例祭でした。
この行事は大正時代の中頃まで続いていたとされ、廟の屋根門へと続く参道の両側には、出店が軒を連ねて立ち並びました。
島飴小(シマアミグゥー)――黒糖を煮詰めて作った大きな飴に、マーミナ粉(きな粉)やユーヌク(はったい粉)をまぶし、不定形に庖丁で割って売る飴や、ハチャグミ――胡麻や落花生、糒(ほしいい)を固めた香ばしいおこし、さらにアミの湯(葛湯)をふるまう天幕と、色とりどりのマチ傘が広がり、祭りの日ならではの賑わいをつくっていました。
かつては、子どもたちの笑い声や、香ばしい香りがあたりを包み込んでいたこの風景も、今では姿を消し、記録のなかに残る幻となっています。
なお、旧六月二十四日は天尊の聖誕日とされ、祭物が供えられていた記録もあります。
祭物には三牲(豚・鶏・魚)に加え、御花(ウバナ)、酒、香、灯火が備えられ、厳かな祈りが捧げられていたといいます。
二十五日の折目(ウイミ)
旧暦六月二十五日、この日は「折目(ウイミ)」と呼ばれる大切な節目の日でした。
特に六月のウイミは「カシチーウイミ」とも呼ばれ、新米で炊いたおこわ(強飯)を供え、豊作を祈願しました。
お供え物も はっきりとした由来は伝わっていないものの、「豚肉の切り身がいつもより大きかった気がする」と、少し贅沢な祝い膳を捧げたと として伝わっています。
久米村ではこのウイミの主役といえば、何といっても「シシ(豚肉)」でした。
主婦や嫁たちが前日までに肉市場へ出向き、良質な肉を手に入れるのが慣習であり、これは単なる準備ではなく、「前日に準備するほどきちんと心づもりしている」という見栄やけじめの表れでもあったのです。
那覇の東町にあった公設市場や周辺のマチグヮー(小さな市場)には、肉の行商人たちの呼び声が響いていました。
「シシコーイミソーリ(豚肉買ってください)」――頭に緑色の盥(たらい)を載せて歩く女性たち。
「ウシノシシ コーンソーリ(牛肉入りましたよ)」――赤い木箱(県の検査を済ませた販売容器)を肩にかけ、節をつけて呼びかける男たち。
なかには「コンソーレー」「ソレー」「ヱー、ヱー」と省略した独特なスタイルで歩く者もおり、それでも売る側と買う側の間には、通じ合う空気がありました。粋でゆるやかな商いの風景があり、のんびりとした暮らしの中に、人と人との信頼と距離感が伺えます。
そして、夏のウイミには欠かせないもう一つの食材はシブイ(冬瓜)です。
保存がきき、煮ても冷やしても美味しいこの野菜は、梅雨明けの台所に欠かせない存在でした。
市場には「シブイアチョール(冬瓜の仲買人)」たちが集い、形や皮のつやを見極め、値を決めていきました。
無痕で長期の貯蔵に充分耐えるものを確保して、後日シブイの相場をコントロールするほどの“冬瓜ボス”たちがいたとされ、市場の相場を左右する力を持っていたそうです。
冬瓜の仲買人には、久米村の「アヤー(士族階級の母の呼び名)」たちの姿もありました。
市場では身なりを気にせず商売に励み、交渉にも一歩も引かないその姿は、まさに生活のプロ。
しかし彼女たちは、「アヤー」と呼ばれることをどこか照れくさく感じ、自らはあくまで「アンマー(母)」と名乗る事も多くありました。
東町の公設市場周辺に住む大家(ウフヤー)の主婦たちもまた、市場を支える仲買人として活躍し、魚や日用品など生活の要となる品々の流通を支えていました。
彼女たちは単なる売り手ではなく、地域の需給バランスを見ながら商いを調整する、まさに市場の舵取り役でもあったのです。
曝書(バクショ)
六月の強い日差し――
梅雨明け後の「ルクグヮチ ティーダ(六月の太陽)」と呼ばれるこの時期の陽射しは、梅雨で湿った家財道具を虫干しする合図となりました。
元々は、書物や書画などの大切な紙類を湿気や虫から守るために、風に当てて乾燥させる行いでした。
梅雨を越えて空気が乾くこの季節は、虫干しに最適とされ、七夕を迎える頃までの定番行事となっていました。
やがてこの習慣は、陶磁器や衣類などにも広がっていきます。
普段はクチャ(裏座)やケー(衣装箱)にしまわれた様々な品々が縁側や庭に並べられ、静かに夏の風を浴びる光景は、季節の風物詩ともいえるものでした。
かつて、六月の久米村には、日常の中に節目があり、祈りがあり、暮らしの知恵が息づいていました。
それらはどれも派手ではなく、静かで慎ましく、それでいて確かに人々の心を支えていたものです。
今では静かに佇む天尊廟にも、かつては祈りと暮らしが交わる時が流れていました。
その時の流れは今も絶えることなく、令和六年の創建六百年祭では、静かな境内に再び祈りの声と人々のぬくもりが満ちあふれました。
歴史は、静けさの中にも息づいている――それは、私たちが大切に受け継ぎ、未来へと手渡していくべき想いなのかもしれません。