久米村という街
かつての明(現在の中国)や日本、東南アジアとの交易によって栄えた琉球王国。
その交易を実際に担当していた人達の住む街、それが今の那覇市久米、当時の久米村です。
では、沖縄の文化形成、発展において、久米村はどのように貢献したのでしょうか。
そのルーツや今なお残る痕跡について、見ていきましょう。
久米村が影響を与えた文化
現在の那覇市久米、当時の久米村は、琉球王国の交易を担当しており、
様々な国の文化を琉球王国に輸入しました。
それらの文化は沖縄で混ざり合い、沖縄独特の文化として、今なお受け継がれています。
例えば、沖縄独特の方言は、ルーツを日本語としながら、様々な国の言葉が混ざったものであり、インドネシアのチャンプールが訛ってチャンプルーになったなど、交易の痕跡が伺い知れます。
また、沖縄のお菓子として有名なサータアンダーギー。こちらも中国に「開口笑」と呼ばれる類似のお菓子があり、琉球国時代にこれが伝わり変化したものと考えられています。
そして、沖縄の人はお墓でお酒を飲むとして有名なシーミーも、明より持ち込まれた儒学に則って王国貴族が行っていた儀礼を、庶民が真似して広がったとされています。
久米村が交易によって沖縄の文化に及ぼした影響は大きく、
琉球王国にとって重要なエリアだったことが伺い知れます。
久米村が支えた琉球王国の発展
交易を担当した久米村には語学に長けた者が多く、
当時最も進んでいた明への留学生を多数輩出していました。
そのため、政治家や学者には久米村出身者が多く、琉球王国の発展にも大きく貢献したと言われています。
薩摩藩島津の琉球侵攻に最後まで抗い続け、王国の尊厳を最後まで守ろうとした英傑として知られる鄭迵(謝名親方利山)は、久米村出身の三司官(琉球王国の大臣)です。
江戸の寺子屋で手習本として使用された六諭衍義は、久米村出身の士族である程順則(名護親方寵文)が中国の六諭衍義に後書を加えて出版した六諭衍義を和訳し、名護聖人と呼ばれた学者です。
久米村出身の三司官である蔡温(具志頭親方文若)は、薩摩侵攻後の琉球が中国と日本のどちらにも支配されず、独立国として存続できるよう、儒学を元にした琉球王国の政治のあり方を確立した大政治家として知られています。
久米村は琉球王国の政治にも深く関与し琉球王国にとって
儒学がどれだけ重要な役割を果たしていたのかが伺い知れます。
久米村のルーツ
琉球王国が出来る前の三山時代(本土では室町時代)に中山王察度が明に依頼し、
皇帝の命により琉球に移住した職能集団が久米村のルーツと言われています。
職能集団である彼らが造船・航海技術を琉球に伝えたことで、航海の安全性が増し、後の琉球王国の大航海時代に繋がりました。
その後も明からの移民者は琉球王国から指定された久米村に集まり外交を担当したことで、先ほど説明した通り、琉球の発展と文化形成に大きく貢献しました。
首里・那覇士族から迎え入れた人も含め、室町時代~江戸初期にかけての明からの移民者やその子孫は、久米三十六姓と呼ばれています。