2026.06.02
【第1回】天尊廟600年の歴史をたどる
久米村という「異国の村」── 那覇に渡ってきた中国の人々
那覇市久米(かつての久米村「クニンダ」)は、今でこそ国際通りから徒歩圏内の市街地ですが、かつては安里川・久茂地川・国場川と海に囲まれた浮島の一角にありました。14世紀後半、琉球王国が中国・明朝の冊封体制に参入した頃、福建省からの渡来人たちがこの地に住み着き、独自の集落を形成したのがその始まりです。
久米三十六姓(くめさんじゅうろくせい)
1392年、明の洪武帝の命により琉球に渡来したとされる福建系の職能集団、およびその後に移住した人々の総称です。「三十六」は「多数」を意味する中国の慣用表現で、実際に36人・36家族というわけではありません。造船技術・航海術・外交文書の作成など、当時の琉球王国にとって不可欠な専門スキルを持った集団でした。
彼らは中国への進貢貿易のほか、タイ(暹羅)やマレーシア(満刺加)など東南アジア各国との中継貿易においても、通訳・外交交渉・航海案内などを担い、琉球王国の「大交易時代」を支える中核となりました。久米村からは後に、琉球いろは歌で知られる政治家・程順則(ていじゅんそく)や、18世紀の大政治家・蔡温(さいおん)など傑出した人物を多く輩出しています。
そしてこの久米村の人々が、故郷・福建等から大切に持ち込んだのが「信仰」でした。航海の女神・天妃、忠義・武の神・関帝、風と雨を司る龍王、そして雷神を本尊とする天尊。これらの廟が久米村の周辺に次々と建てられ、那覇ならではの信仰風景を形成していきました。
天尊廟とはどんな場所だったのか
天尊廟は、那覇・波上(ナンミン)の麓に位置する道教の廟です。本尊は「九天応元雷声普化天尊」、すなわち雷神にあたります。国家の安穏や航海の安全を祈るほか、干ばつの際には雨乞い(祈雨)の儀礼も行われ、久米村の人々にとって信仰の中心的な場所でした。
廟が立つ波上一帯は、那覇のなかでも特別に宗教的な「聖地」とも言える地域でした。琉球八社の筆頭・波上宮(ナンミン)や古刹・護国寺をはじめ、洪済寺・広厳寺なども軒を連ねました。アジアの各地から集まった信仰が交差するこの場所に、天尊廟は建設されました。
▼ MEMO
天尊小堀(ティンスングムイ)
かつて天尊廟の前方には「天尊小堀(ティンスングムイ)」という池沼がありました。風水の観点から廟の前に意図的に設けられた水辺で、廟の「気」を整える役割を持つとされています。中国の廟建築に見られる典型的な配置であり、久米村の人々が故郷の文化をいかに丁寧に持ち込んでいたかを物語っています。

阿嘉宗教 「首里那覇図」 沖縄県立図書館所蔵 CC BY 4.0(一部改変) (https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/deed.ja)
また毎年、旧暦6月24日の天尊の例祭には、廟の周辺に露店が立ち並び、島飴小(シマアミグワー)やハチャグミ、葛湯などが売られ、庶民が集う賑わいを見せたといいます。天尊廟は単なる信仰の場にとどまらず、地域の人々が集うコミュニティの核でもあったのです。
神像の「移徒」── 明治以降の波乱の歴史
1879年(明治12年)、琉球王国は「琉球処分」によって日本に組み込まれ、沖縄県が設置されました。この歴史的な転換点は、天尊廟とその周辺の廟にとっても大きな試練となりました。
久米村に関わる道教の廟は、天尊廟のほかに上天妃宮・下天妃宮・関帝廟・龍王殿がありました。しかし明治の近代化政策のなかで、両天妃宮はやがて学校や医院、郵便局へと転用されていきます。それに伴い、各廟に祀られていた神像も天尊廟へと次々と「合祀」されることになりました。
こうして天尊廟は、近代化の流れの中でもその変化を受け止めながら、消えていった数々の廟の「受け皿」として機能し、久米村における道教信仰を今に伝える場となっていきました。
■ COLUMN
郵便局の地中から、神像の首が現れた日
1911年、那覇郵便局での「発見」
下天妃宮の跡地に建てられた那覇郵便局で、1911年(明治44年)10月、下水工事中に土のなかから「天妃仁王」像の首部が発見されました。「天妃仁王」とは両天妃宮の門を守っていた千里眼・順風耳の像のことで、地元ではわらべ歌にもなるほど人々に親しまれていた存在でした。
発見を受けて、郵便局側と地元有志が敷地の一角に小さな堂を建て、同年10月22日に遷仏式を執り行いました。祭日はその日付のまま毎年10月22日と定められたといいます。時代の流れによって忘れ去られかけた神像が、地中からひっそりと姿を現し、それをもう一度祀ったこの出来事は、信仰というものの根強さをあらためて感じさせてくれます。


沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館所蔵 鎌倉芳太郎撮影
廟の中に残された記録
1920年代、本土から複数の研究者が那覇を訪れ、天尊廟の内部を詳細に記録しました。なかでも美術研究家・鎌倉芳太郎と建築家・伊東忠太の残した資料は貴重で、当時の廟の様子を今に伝えています。
当時の廟内は、中央に天尊、左に天妃、右に関帝、そして右の壁側には五体の龍王が並び立ち、それぞれに香炉を据えた卓台が置かれていました。伊東忠太はその光景を「総ての調子が全然支那式で、自分は今や漢土に居るやうな気分である」と記しています。



沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館所蔵 鎌倉芳太郎撮影
私が天尊廟を視察して居る時、丁度三人の土地の婦人が参詣に来た。彼等は田舎の農婦らしい賤しい風体で……その中の一人が、一束の線香に火を点じ、何やら口の中で唱へながら線香を上下左右に静かに動かすと、他の二人は之に従って黙祷を捧げるかのやうに見へる
伊東忠太(建築家・1924年頃の調査記録より)
廟には、ユタ(沖縄の霊媒師)と思われる「祈祷専門の女性」もいて、依頼を受けて代参や祈祷を行っていたといいます。こうした記録から、天尊廟が単なる久米村人の廟にとどまらず、那覇の庶民の日常信仰とも深く結びついていたことがわかります。

また、鎌倉のノートには香炉や扁額の詳細な記録も残されており、天尊廟の香炉が1841年(道光21年)に、関帝廟の香炉が1872年(同治11年)に寄進されたことも確認されています。文字資料だけでなく、こうした「モノ」が語る歴史の厚みは、記録の乏しい近代の廟史を補う貴重な証言です。

天尊/道光二十一年辛丑口月 1841年
沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館所蔵 鎌倉芳太郎撮影

武聖/同治壬申 1872年
沖縄県立芸術大学附属図書・芸術資料館所蔵 鎌倉芳太郎撮影

那覇市歴史博物館 提供
近代以降、沖縄の風景や価値観が大きく変わっていく中で、天尊廟は幾度もの時代の波を受け止めながら、この場所に在り続けてきました。上・下天妃宮の変遷や、時代ごとに祀られる御神体は変わりますが、単なる建物の歴史ではなく、その時代を生きた人々の祈りや社会の空気を映し出しているようにも感じられます。
また、天尊廟には、表立って語られることの少なかった歴史や文化財が受け継がれてきた側面もあり、琉球と海外を結ぶ精神文化の“記憶の器”としての役割も担ってきたように思えます。戦前の資料や記録は決して多くはありませんが、研究者たちが残した写真や文献から当時の姿を今にたどることができます。そこには単なる史跡ではなく、長い年月を超えて人々の信仰や想いを受け継いできた場所としての重みが感じられます。
天尊廟をめぐる歴史を紐解くことは、単に建物の過去を知るだけではなく、久米村の中で育まれてきた多様な文化や精神性を見つめ直すことにも繋がっているのかもしれません。
参考文献:一般社団法人 久米崇聖会『チーシンブー』第12号