MENU

TRANSLATE

運営団体:一般社団法人 久米崇聖会

読み物

久米行事

2025.06.14

久米村時代の年中行事(旧五月の行事 )

 旧暦五月、沖縄では「ワカナチ(若夏)」と呼ばれる季節の訪れとともに、梅雨の晴れ間に陽光が差し、海辺や街角に活気が戻る頃です。久米村でも、子どもたちが心待ちにする玩具市「ユッカヌヒー」、爬龍船競漕(ハーリー)、端午の節句にまつわる料理や風習、そして衣替えなど、初夏の暮らしに彩りを添える行事が行われていました。

 今回は、そんな「若夏」の風が吹き始める五月の久米村の姿を、当時の暮らしの中に息づいていた行事や風俗を通じてご紹介します。

ユッカヌヒー(五月四日)

旧暦五月四日、巷に「ユッカヌヒー」という声が聞こえ始めると、子どもたちの心はそわそわし始めます。ユッカヌヒーは子どもにとっての「玩具市(がんぐいち)」の日。久米村では、大門前(ウフジョーヌメー)一帯に、朔日(ついたち)から市が立ち並び、郷土玩具やブリキ製の新しいおもちゃが所狭しと並ぶ光景が広がっていました。

この玩具市には、島の素朴な手づくり玩具から、大和産の錻力製(ブリキ)の「新型おもちゃ」までが並び、数日間にわたって夢のような世界が広がります。子どもたちにとっての大切な節目といえば、三月の「ウジュウ」と、この五月の「ユッカヌヒー」。どちらも男の子・女の子の区別なく、平等に祝われる、嬉しい行事だったのです。また、ユッカヌヒー当日は「ウイミ(御忌)」の日でもありました。霊前には赤飯や酢の物、シシヌシル(豚肉と大根に冬瓜と昆布を入れた汁物)が供えられ、火の神には赤ウブク(ご飯)をお供えするなど、家族の健康と平安を祈る神聖な一日でもあったのです。

ハーリー

玩具市で賑わうユッカヌヒーの同日、那覇港では、もう一つの風物詩であるハーリー(爬龍船競漕)が行われていました。かつて琉球王国時代から伝わるこの伝統行事では、久米・那覇・泊の三隻の船が那覇港から国場川を遡上し、海上で勇壮な風を吹かせました。

その後、しばらく途絶えていたこのハーリーを、泊が主体となって復活させたのが大正十年頃。復活した三隻のうちの一隻は、黄一色に彩られた「クニンダ(久米)のハーリー」と呼ばれ、今日まで受け継がれています。

往時の久米村では、ハーリーのための基金「ハーリーグムチ(御物)」が設けられ、運営体制も整備されていました。爬龍船を保管する「ハーリーヤー(船倉)」があり、さらには装飾のタチ(龍頭)イビラ(龍尾)も戦前まで孔子廟に保管されていました。

アマガシ、チンビン、ポーポー

旧暦五月五日――端午の節句は、久米村の家庭でも特別な一日でした。この日は、アマガシという麦と豆を甘く煮た「沖縄風ぜんざい」を作り、霊前に供える習わしがあります。各家庭によって、金時豆や青豆が入り、スプーンの代わりに菖蒲の茎を使用するのが慣わしでした。

同じくこの日に欠かせないのが、チンビン(巻餅)ポーポー(餑々)。どちらも小麦粉を溶いて薄く焼き上げたもので、チンビンには黒糖を混ぜて甘く味付けし、ポーポーにはアンダンスー(油味噌)を巻きます。それらはお供え物として霊前に並べられ、お墓参りに持っていくこともありました。

この日のハーリーは最終日でもあり、「アマガシバーリー」あるいは「グソーバーリー(後生バーリー)」とも呼ばれ、祖先や神仏への祈りとともに、行事の締めくくりを迎えます。端午の節句は、中国では「陽の極まる日」とされ、五日の午の時を天中節とも表します。端午の節句の行事は様々な形で伝わっていますが、おおよそ唐代になってから盛んになり、民間娯楽へと変化したようです。五月は悪月とされたため、不祥を払い無病息災を願う風習が暮らしの中に息づいていたのです。

五月ウマチー

旧暦五月十五日、久米村では「五月(グングヮチ)ウマチー」と呼ばれる年中行事が執り行われました。これは、宗家(ムートゥヤー)の神棚を拝み、豊作と家族の息災を祈る大切な祈願の日です。

儀礼を取り仕切るのは、宗家の家主や、地域の神人(カミンチュ)。神人は二名で構成され、一人は「ウミキー」、もう一人は「ウミナイ」として、それぞれ神衣をまとい、神前で厳かに拝みを捧げます。儀式が終わると、神衣を脱ぎ、神棚の前に丁寧に並べた状態で参拝者を迎え入れるという、清浄と敬意のこもった作法が行われていました。

供え物は、アーセウブク(合わせ御飯)と呼ばれる二つの椀を重ねたご飯、冬瓜や豆腐、昆布などの精進食材を濃い味噌で煮たンブシー、さらに酒、そして花米(ンパナグミ)などが並びました。

観音拝みとブーサガナシ

旧暦五月の中旬から下旬にかけて、家の守神として観音菩薩を勧請(かんじょう)している家では、「お観音拝み」が行われていました。これは、十八日・十九日・二十三日のいずれかに日を定め、家族で観音祭を執り行う行事です。

祭壇には、饅頭や果物、などが供えられ、親族や近隣の人々がそれぞれ果物や菓子を持ち寄って、静かに手を合わせます。派手さはありませんが、こうした家庭的な祭礼のなかに、日々の感謝と無病息災への願いが込められていました。

また、天妃(てんぴ)=天后=媽祖は観音菩薩の化身とされており、天妃菩薩として直接勧請して祀る家庭もありました。海外との貿易に従事している者が多い久米村ならではの信仰形態で、天妃は航海者の守護神「ブーサガナシ(菩薩加那志)」として祀られていました。

ブーサガナシの拝みも、形式や供え物は観音拝みとほぼ同じで、信仰の対象こそ違えど、人々の祈る心は共通しています。海に囲まれた琉球の地で、観音と天妃という二つの慈悲深き神が、人々の暮らしと命を守ってきたのです。

夏の衣替え

夏の訪れを告げるのは、衣替えの風景。琉球王国時代には、四月朔日(旧暦)から九月晦日まで帷子(かたびら)を着ることが、尚質王の時代(康熙6年・1667年)に定められていたと『琉球国由来記』の王城公事にも記されています。帷子とは、薄手で涼しい夏用の衣服で、旧暦四月は「クルンゲーイ(衣更え)」として広く知られていました。

近代に入ると、洋装が普及した大正時代には新暦五月一日が衣替えの日とされ、学生から一般人までが一斉に白い夏服に切り替えるのが通例に。ほんの数週間しか着られない「セル(毛織の単衣)」から、木綿や芭蕉布、麻の帷子へと、素材も装いも夏仕様に変わっていきました。

特に女性の装いでは、下衣(ハカマ)の仕立てが重要とされ、着付けの美しさを大きく左右する要素でした。波上通りや辻町にはハカマ専門の仕立屋が並び、とりわけ与那嶺家や嘉手苅家などはその技術で評判を呼んでいました。仕立て主(スー)は裁断を担当し、縫いは家族や縫子たちが分担。常時多忙で仕事に追われるほどの盛況ぶりだったといいます。

また、洗濯物には「糊付け」が欠かせませんでした。とくに夏場は湿気が多く、糊なしの着物は“だらしない”とされることも。糊の素材は「ソージョーフ」とよばれ、小麦粉を取ったあとの皮屑(グンバン=ふすま)に水を加えて練ることでできる粗製の麩(フー)を、水の中で何度も揉み、食用のフーと不要な成分に分けていくという手間のかかる工程から生まれます。白く濁った洗い水を静かに置いておくと、底に沈殿する白い塊これが糊の材料「ソージョーフ」になるのです。これを売り歩く声「ソージョーホーン」は、辻町の風物詩として親しまれていました。

また、洗い出されたフー(麩)は「ナマプー(生麩)」として市場に並び、一部は細長くすのこで巻いて湯通しし、「フーグヮー(ゆで麩)」として夕食の一品に。炒め物の具材として、豚肉やもやしと共に調理されることが多く、久米村の食卓をにぎわせました。


初夏の陽射しが差し込む旧暦五月。ユッカヌヒーの玩具市で心躍らせる子どもたちの姿や、那覇港を彩るハーリーの勇壮な競漕。アマガシやチンビンの甘い香り、神棚に向かって祈る人々の静かな時間。そこには、季節のめぐりに寄り添いながら暮らしを営む久米村の人々の姿がありました。

糊付けされた衣の白さに清潔を宿し、ソージョーフと生麩に素材を活かしきる知恵を見出し、日々の営みの中に祈りと願いを自然に織り込む。行事と日常が地続きであり、季節の節目ごとに、神々や祖先を祈り敬う事で地域や家族の無病息災と繁栄を願っていた事でしょう。忘れられがちな「暮らしの記憶」を振り返ることは、これからを生きるための知恵とあたたかさを私たちに与えてくれているようです。