2025.02.13
久米村の年中行事(一月の行事①)
久米村には、四季を通じて受け継がれてきた伝統行事が数多くあります。その多くは、自然の恵みに感謝し、祖先を敬う心を大切にするものです。村の人々は、家族や地域のつながりを大切にしながら、行事を通じて先人たちの想いを受け継いできました。
年中行事シリーズでは、久米村の一年の行事をご紹介します。新年を迎える厳かな風景、春分に行われる御清明祭、夏の旧盆、そして秋の彼岸——それぞれの行事には、祖先を敬い、暮らしの中に息づく風習や伝統が込められています。
今回は、一年の始まりである1月の行事をご紹介します。
正月の風景
久米村では、元日から一年の始まりを厳かに迎えました。大晦日には家の内外を丁寧に掃き清め、新年を迎える準備を整え、中でも、御霊前(ウメー)やウミチムン(火神加那志=ヒヌカンガナシー)の御前(ウメー)には、さまざまなお飾りが施され、厳かな正月の雰囲気が漂っていました。
若木(ワカキ)の販売
明け方に威勢のよい若木売り(十三、四才位の男の子) の「ワカキ ワカ ワカート ナンジャマース クガニマース ウケーン ソーリ」(若か若かしい若木に、銀の塩も黄金の塩もお買いくだされ)との呼び声に起こされて久米村は新しい年を迎えます。縁起物の若木と黄金の塩は、若木は霊前、火神の花生けに生けられ、塩はお供え物に加えられます。
若水(ワカウビー)と新年の祈り
元日の朝には、アチホー(恵方)の井戸から汲んだ若水を御霊前や火の神に供えました。家族はこの若水で顔を洗い、新しい年の無病息災を願いました。
正月のお飾りと元日の風景
久米村では、新年を迎えるにあたり、家の内外を清め、御霊前や火の神(ヒヌカン)を中心に正月飾りが施されました。
御霊前には卓を置き、ミジヒチ(帷と卓裾)を掛け、その上に香炉や燭台を並べます。神位(お位牌)の花生けにはフチマと、朝に買い求めた若木を活け、供物として白玉(シラタマ)やハーガーを重箱に飾ります。
火の神の飾り付けには、松とフチマを生け、塩を三つ立てる習わしがありました。また、紅紙で巻いた炭を中心に、塩漬けの豚肉や魚、乾物類、大根、人参、田芋などを蘭の葉で結び、竹の棒に通して飾ります。
これは「正月は死者が現世の者を招く月」とされることから、現世には十分な食糧があることを示し、「お招きはご遠慮申し上げます」という意味が込められています。類似した風習として、中国には「万年糧」と呼ばれる正月飾りがあり、米籠に米を盛り、松柏の枝やみかん、菱の実を添えて飾る風習があります。
元日の朝、家族は黒砂糖や糕菓子、ナントゥーンースを供え、霊前を拝みます。子供たちは若水で顔を清め、祖父母や両親に「ヰーソウグワチ、デービル(良いお正月であります)」と新年の挨拶をしますが、慣れない言葉に照れくささを感じることもありました。
朝食のあと、学校へ登校する者もいました。夜になると、霊前には夕食の膳とアンダギーが供えられ、「ヒーソーグヮチ(火正月)」の言葉どおり、家中に灯明がともされます。その温かな光のもと、家族が集まり、福の神に見守られながら新年を迎える喜びを分かち合いました。
年始廻り
新年を迎えると、時間の都合がつき次第、朝から年始廻りに出かけます。
まず宗家(ムートヤー)を訪れ、祖霊を拝み、当主に新年の挨拶をした後、親戚の年長者の家を順に訪ねていきます。
年始の客には、御茶と糕菓子などの正月らしい茶菓子が振る舞われます。
子供たちは、お年玉をもらうのが楽しみのひとつでした。紅紙に包まれたお年玉の中身は、一銭や二銭(大きな二銭銅貨はズシリと重みがあり、一貫目(イックヮンミー)と呼ばれました)、五銭(白銅貨=シルミーグヮー)など。もし十銭の銀貨が入っていれば、飛び上がって喜ぶほどでした。
十銭や二十銭もの大金をもらうときは、必ずといっていいほど「よく勉強しなさい」「挨拶が上手だから」など、励ましの言葉が添えられました。お年玉は単なる贈り物ではなく、子供たちへの期待やしつけの意味も込められた、大切な新年の風習だったのです。
春聯 (シュンレン)
春聯(シュンレン)は、正月に縁起の良い言葉を記した紅紙を家の柱や門に貼る習慣で、中国をはじめとする東アジアの伝統文化の一つです。
久米村では、宗家(ムートヤー)などで書に優れた年長者が、正月を迎えるにあたり、紅紙に聯句(レンク)を墨書し、霊前の柱に貼る習わしがありました。かつては家門(ヤージョウ)にも貼る家が見られましたが、時代の変化とともに、この風習は徐々に簡略化され、柱のみに貼られることが一般的になりました。
仕事始め(ハチウクシー)と書き初め
二日はハチウクシーの日でした。一般的には家業に関する仕事始めを指しますが、久米村ではこれに加えて、子どもたちにとってのハチウクシーとして書き初めが行われていました。
この日、子どもたちは朝の登校前に着替えを済ませ、拭き清められた机に向かいます。筆、墨、硯が用意され、手本に従って紅紙や紅紙を貼りつけた白紙に清書し、その作品を霊前に供えました。その際、自ら香を焚き、先祖への祈りとともに新年の学業成就を願いました。
霊前には、お供えとして酒や三つ折りにした出し昆布、厚く削られた鰹節、半球状に盛られた塩が大皿に整えられ、拝礼が行われます。拝礼の後には、酒盃と三種類の付き出しが振る舞われ、書き初め式が締めくくられました。
その後、子どもたちは学校へ登校するため、忙しくも厳かな一日の始まりとなったのです。
二日のお供え物と三日の節供
二日は田芋とデークニイリチー(大根をうすく短冊に切って、人参や大蒜の葉を加えて油でいためたもの)お供えしていました。
三日の晩はミッカ ノ シュク(三日の節供)として夕食の膳を霊前にお供えしていました。
火神加那志の下天
火神加那志(ヒヌカンガナシー)は、家の火を守る竈(かまど)の神として信仰されており、一年の終わりに天へ戻る 「上天(じょうてん)」 と、新年の始まりに再び地上へ降りる 「下天(げてん)」 の拝礼が行われます。
札には以下の文字が記されており、次の「上天」の日である十二月二十四日までそのまま掲げておきます。
- 伍方五帝司命灶君(火神を司る神)
- 巍々聖徳乾坤大(神の徳は広大である)
- 永々皇図日月長(皇図は日月のように永遠である)
お供え物として、白ウブク(三個)、七回水洗いしたアレーンチュミ(米)をフチマの葉三枚に包んだもの三つ、お酒を供えます。また、火神への礼としてファーウコー(島産の平御香)を十二本たき、御香が燃え尽きる前に計五回、香をあげます。
これらの作法をもって、火神加那志の下天の儀式が執り行われ、一年の家庭の守護が始まるのです。
ナンカ粥(七日の節供)
七日には七種類の野菜を入れた七草雑炊(ナナクサジューシー)が供えられました。この日は人が始めて生まれた日として「人日」とされ、人々の健康を祈るウフシチビ(重要な節句)とされていました。
トゥシビーウイエー(年日祝)
トゥシビーウイエー(年日祝)は、元日から数えた十二支の一巡りが完了する十二日に行われる伝統的な行事です。これをもって年日祝は終了し、新たな一年を迎える節目とされていました。
この日、家族の年日にあたる人には、「ソーミンウブク」 と呼ばれる特別な素麺が霊前や火の神(ヒヌカン)へ供えられ、無病息災を祈願しました。夜には、家族が集まり、小宴を開いて祝う習わしもありました。
ソーミンウブク
ソーミンウブクとは、島素麺(しまそうめん)を用いた縁起の良い供物 です。一般的な素麺よりもやや太く、長さが70〜80センチほどあるのが特徴で、茶碗にぐる巻きにして供えられました。この素麺は 結納や祝事 でも用いられ、油で揚げることで、お茶うけとしても楽しまれました。
この風習は中国の伝統にも通じるもので、中国では古くから出産祝いに「湯餅(タンピン)」と呼ばれる小麦粉を使った餅を作り、子どもの長寿を願う習慣がありました。唐代(7〜10世紀)になると、これが特に盛んになり、縁起物として定着したとされています。
また、沖縄の生年祝(ショウニンウイエー)でも、最初に客へ出される膳には 素麺の御吸い物 が添えられ、この祝い膳に欠かせないものとされていました。
ショウニンウイエー(生年祝)
ショウニンウイエー(生年祝)は、その年の干支に当たる年齢に達した人を祝う伝統行事です。対象年齢は十三歳、二十五歳、三十七歳、四十九歳、六十一歳、七十三歳、八十五歳で、特に十三歳、六十一歳、七十三歳、八十五歳は盛大に祝われました。
十三祝い(初めての生年祝)
十三祝いは、子どもが大人の仲間入りをする節目として特に重視され、家族はできる限り盛大に祝いました。招かれた子どもたちは、親から挨拶の仕方や礼儀作法を学び、ご馳走を楽しんだ後、お土産としてアンダギーや赤飯などを持ち帰るのが習わしでした。
ウフウイエー(大型の生年祝い)
六十一歳、七十三歳、八十五歳などのウフウイエー(大きな祝い)は、親族や地域の人々を招いて開かれました。久米村では、大きな家(ウフヤー)を会場にし、自家製のご馳走が振る舞われました。招待客は、色鮮やかな琉装や大和風の正装で正月気分を一層盛り上げ、男性と女性は別々の席に分かれて祝宴が行われたのも特徴です。
生年祝いは、その人の長寿や繁栄を願う重要な節目として、家族や地域の結びつきを深める大切な行事でした。
※注1 ウフヤー(本家)またはウヤヌヤー(親の家)は、分家した二男・三男から見た両親の家を指します。
※注2 ワタジン(綿衣)は、綿の入った着物ではなく、冬期の婦人の礼服を指します。親方、親雲上、里之子親雲上の夫人などが着用し、階級によって紗綾(さや)、紬絣(つむぎがすり)、五色絹糸交織(ごしょくけんしこうしょく)の布地が使われました。紗綾は按司部(アジビ)が使用する生地ですが、久米村では高貴な色とされる黄色を避け、それ以外の色の紗綾が許可されていました。なお、夏期の婦人の礼服は「タナシ(田無)」と呼ばれ、紺色の上布が用いられました。
アトゥトシビー(後の年日)
アトゥトシビー(後の年日)とは、正月中の3回目または4回目の干支の日 にあたる日で、特に 生年に当たる人 にとっては重要な日とされていました。この日を迎えることで、正月の祝いごとが一区切りとなります。
生年に当たる人の家庭では、この日を省略せず、身内だけで 小宴を催し、ブクブクー茶をたてて静かに祝いました。また、二十日正月(ハチカショウガチ)以降も正月気分が続き、家々では特別な料理が作られました。
主な祝いの料理 には、次のようなものがありました。
- 餅揚げ(ムチアーギー):餅を揚げて食べる風習
- 素麺揚げ(ソーメンアーギー):ソーメンウブクを切って揚げる
- 芋葛揚げ(イモクジアーギー):芋くずを揚げたもの
- 小判揚げ(藷アンダギー):芋を使ったアンダギー(沖縄風ドーナツ)
これらの料理は「景気をつける」という意味も込められ、油鍋(アンダナービ)をチャーラナイ鳴らす(揚げ物をすることで、祝いの賑わいを表現する)とされていました。
また、正月用に買い入れた食材が余っている場合、それらを活用した料理が振る舞われました。大根や昆布イリチー、田芋リンガクなどを使い、親戚や近しい縁者が自然と集まり、下記のような祝菓子や果物を持ち寄る ことも多かったといいます。
- 赤マチカジ(赤い色の焼き菓子)
- ハーガー(麦粉で作った伝統的な菓子)
- チンスコー(沖縄伝統の焼き菓子)
- 天妃前饅頭(特別な行事で供される饅頭)
ハリヤク(晴れ厄)とイリヤク(入り厄)
ハリヤク(晴れ厄) とイリヤク(入り厄) は、生年に当たる人(前年に祝った人)と、これから生年を迎える人(翌年に祝う人)のために、家や集まりを賑やかにし、景気をつけるための習わしです。久米村では、この時期に特に賑わいを持たせることが重要とされ、「ヤーフミカス」(家をにぎやかにする)という風習がありました。
「ヤーフミカス」という言葉は沖縄語辞典では 「イャーフミカス」 とされ、「人が集まって家をにぎやかにする」 ことを意味します。これは、中国の「煖室(だんしつ)」という風習にも通じるものがあり、新しい家に移った際に宴を開き、親戚や知人を招いてにぎやかにする という伝統と深く関係しています。
久米村では、移転祝いだけでなく、祖父母の誕生日や全快祝いなどの際にも「ヤーフミカス」が行われました。こうした小宴の際には、家族や親族が集まり、男性は一番座、女性は別の座敷に分かれて宴を楽しみました。家の霊前や火の神(ヒヌカン)には灯火がともされ、なごやかな雰囲気が作られました。
灯明の芯と縁起
宴の中では、灯明の芯の燃えかすの形に注目する習わしもありました。燃えかすが 「丁字頭(ちょうじがしら)」 と呼ばれる花のような形になると、それを油の中に入れることで 家財を得る と信じられていました。また、灯芯の花が咲くと「良いことが起こる」 という言い伝えもあり、これが話題となることも多かったようです。
このような風習は、中国にも見られ、灯芯が花の形に結ぶと 金運が良くなる という迷信がありました。沖縄の家庭では、このような ささやかな幸運を大切にしながら、家族の絆を深める時間を過ごしていたのです。