MENU

TRANSLATE

運営団体:一般社団法人 久米崇聖会

お知らせ

久米行事

2025.05.05

琉球王国時代の久米村年中行事(旧四月の行事 )

四月、やわらかな日差しに誘われて、久米村にも初夏の気配が漂い始めます。
冬の間に使い込んだ寝具や衣類を手に、家族そろって海辺へと出かける光景は、この季節ならではの風物詩。
浜辺に広がる洗濯物、子どもたちのはしゃぐ声、そして潮風にまじる昔ながらの洗剤の香り――。
季節を迎えるための知恵と手間、そして人と人とのぬくもりが息づく久米村の四月の風景をお届けします。

初夏の洗濯

この時期になると、初夏の気配とともに汗ばむ日が増え、冬のあいだ使っていた夜具や寝具を洗濯する季節がやってきます。
婦女子たちは、それらをまとめて家族で海辺へ出かけ、一日がかりで洗濯をします。場所は、現在の自動車練習所がある「下波上」が多く、潮が引くと大きな岸礁が現れ、三重城近くまでつづく浜辺は、洗濯にはうってつけの場所でした。
洗濯を終えた寝具は、帰宅後に井戸水で塩抜きをして仕上げるのが習わしでした。

アクガーミとユナジガーミ

久米村の家々では、台所(ミンタナー)の軒先に「アクガーミ(灰汁の壺)」と「ユナジガーミ(発酵液の壺)」が据えられ、洗濯に使う灰汁やユナジが仕込まれました。
那覇の井戸水には塩分が含まれていたため、市販の石鹸だけでは衣類の仕上がりが満足のいくものにならず、灰汁やユナジが重宝されていました。
アクは、木炭に水を注いで上澄みをすくったぬるぬるした灰水。ユナジは、米のとぎ汁や残り飯を数日発酵させたもので、独特の臭気を放ちながらも、芭蕉布や上布、トゥンビヤンといった夏物衣料には欠かせない洗濯剤でした。

ユナジは、かつて大宜味村喜如嘉の芭蕉布工房でも使われていたと伝えられており、その独特なにおいは、今も昔の初夏を思い出させる記憶のひとつです。

こうした灰汁を使った洗濯の習慣は、古代中国の『礼記』にも記されており、当時の人々が灰汁を用いて衣服を清めていたことがうかがえます。
また、髪や顔を洗う際には、米や粟のとぎ汁を用いる「番休(ハンモク)」という習わしもありました。梁(おおあわ)のとぎ汁を使うとされる記述もあり、顔や髪は、米をはじめとする穀類のとぎ汁で洗うのが一般的だったようです。

さらに昭和初期の那覇では、「チュウジナ粉(丁字の粉、あるいは手水の粉 ※諸説あり)」や青豆(オーマーミー)を粉に挽いて香料を加えた洗顔料が使われており、これらを量り売りする「チュウジナ粉売りのおばさん」が各家庭を訪れる姿も見られました。

カーサレー(井戸浚え)

四月のこの時期、貸家を所有する家庭では、吉日を選んで「カーサレー(井戸浚え)」が行われます。
ヤーヌヌーシ(大屋)が音頭を取り、ヤーカヤー(店子)たちが総出で、冬を越した古い水を汲み出し、生活に欠かせない井戸の内外を清掃します。
これは悪疫の流行や環境衛生の悪化を防ぐための行事で、必要に応じて臨時に実施されることもありました。
古くからの生活防衛の知恵ともいえるこの井戸掃除は、中国でも周代から続く春の恒例行事とされており、久米村でもそれに通じる風習として受け継がれてきました。

染指甲

四月の終わり頃、屋敷のかた隅や石垣の上に、鮮やかな赤い鳳仙花(テンサグノハナ)が咲きはじめます。
この花を摘み、葉とともに指先にのせて桑の葉で包み、紐で軽く結んでしばらく置くと、爪がほんのり紅く染まります。
少女たちはままごと遊びから発展させて、こうして爪を染める「染指甲(せんしこう)」を楽しんでいました。
※いわば、家庭に咲く花で彩る、昔ながらのマニキュアのような美の遊びでした。

左手は自分で包めても、右手になるとうまくいかず、そんなときは祖母がそっと手を貸してくれました。
ダー クマンカイ クーワ(こっちへおいで)」という声に誘われて、祖母と孫が向き合うその光景には、親しみと優しさがあふれていました。
祖母の手には、染織の仕事で藍に染まった跡が残り、ハジチ(入れ墨)がかすかに見えることもありました。

久米村では、こうした藍に染まった女性の手は「チュラ ヌヌ ウヤー(美しい布織を織る人)」を象徴するものとされ、スグリムン(優れた品)の担い手としても誇られていました。
染めから織りまで一貫して仕上げる染織工芸は、現在でいえば高度な手工芸にあたるもので、これを担うのは主にウフヤー(本家)の役割でした。
この手工芸はヤーワカヤー(分家)の女性たちには、なかなか手が届かない高度な芸道でもあったと伝えられています。

当時は、家庭の規模や立場の違いが女性たちの職業にも表れており、名家の主婦は貸家や土地の管理、質屋や古着商、ジンヌゥミグイ(小額金融、模合の座元)などを担いながら、染織にも従事していました。
一方、二男・三男の分家にあたる婦女子たちは、手仕事に長けた者が賃仕事に出たり、市場で多様な商いをするなど、それぞれの立場で家計を支えていたのです。
このような暮らしぶりは、西町(ニシマチ)、東町(ヒガシマチ)や泉崎(イジュンヂャチ)など、四町の主婦たちにも共通して見られるものでした。

沖縄で広く親しまれている民謡《てぃんさぐぬ花》は、鳳仙花を題材にした教訓歌です。
てぃんさぐぬ花や チミサチにすみてぃ(鳳仙花を爪先に染めて)」という歌詞は、今も多くの人々の心に残る一節として歌い継がれています。

爪を染めることを通して「親の教えを心にそめる」ことの大切さを説くこの歌は、沖縄の人々の暮らしの中に受け継がれてきた価値観を今に伝えてくれます。
親の教えを尊び、自然とともに暮らし、家族とともに歩むという姿勢は、久米村の人々にも深く受け継がれているようです。

潮の満ち引きにあわせて浜で洗濯をし、井戸を掃除し、灰汁やユナジで衣服を洗い、身だしなみや爪先まで自然の恵みによって整える。
四月の久米村には、季節の移ろいとともにある丁寧な暮らしと、家族・隣人とのつながりがあふれていました。

こうした風習や心のあり方は、久米村だけでなく、沖縄の各地に共通する文化の礎として、今も静かに息づいているように思えます。