2025.04.12
琉球王国時代の久米村年中行事(三月の行事)
立春を迎え、久米村にも春の気配が訪れる2月。春風が心地よく吹き抜ける三月、久米村では子どもたちの健やかな成長を願って華やかな重箱を用意する「ウジュウ」、女性たちが仲間とともに春を満喫する「ヌチャーシー」、そして家族や一族で先祖に感謝を捧げる「ウシーミー(御清明祭)」など、個性豊かで心温まる伝統行事が行われます。
今回はそんな三月の行事をお届けします。
ウジュウ
三月三日の行事は「ウジュウ」と呼ばれていますが、「サングリチサンニチー(三月三日)」とはあまり言われません。
子どものいる家庭では、この日のために、とっておきの綺麗な重箱に「ククノシナ(九品)」のご馳走を美しく詰めます。これを「ウジュウを盛る」といいます。子どもには男女の区別なく重箱を用意しますが、特に「初ウジュウ」の際は、その子の健やかな成長を祝ってできる限り豪華にするのが習わしです。
子どもが多い家庭では、長男・次男・三男で自然と重箱の大きさに差がつくこともあります。たとえば、長男には八寸角の重箱を用いるのに対し、次男や三男には六寸重や弁当重が用意されました。
沖縄の重箱は四段重ねで「チュクン(一組)」と呼ばれており、残りの重箱には「サングワチグワーシ(三月菓子/小麦粉を卵で練り、油で揚げたお菓子)」が詰められます。これらはすべて自家製で、意匠を凝らすのも腕の見せどころ。前の晩から女性や子どもたちも総出で菓子作りに励み、わいわいがやがやと賑やかなひとときとなります。また、別の重箱には赤飯のおにぎりも盛りつけられます。
三日の朝には、盛ったウジュウを霊前に供え、子どもたちの健やかな成長を祈願します。その後、桃の葉や南天の葉を重箱にのせて、祖父母の家から順に伯父・伯母の家を訪ね、披露して回ります。こうした披露は、やがて家々での見た目や中身を競う“コンクール”のような楽しみにもなっていきます。
なお、食べ物を外に持ち出す際には、「サン」と呼ばれるサチガラー(蘭)などの紐を、片方に丸みを持たせた特有の結び方で魔除けとして添える風習がありますが、ウジュウの場面では使われません。代わりに、見た目の美しさを重んじて、桃や南天の葉がのせられます。
桃や南天は「チュシームン(清らかなもの)」とされ、水疱瘡の際にもその回復を願って「ミヂナリー(祈願の葉飾り)」として用いられる習わしがあります。古くは、中国・周代の故事にも桃の木で邪気を払う風習が見られ、それが清の時代まで続いたといわれています。その魔除けの力は、遠くここ久米村にまで伝えられ、今も息づいています。
ヌチャーシー
三月は、子どもたちのためだけでなく、婦女子にとっても特別な月です。三月三日を過ぎると月末まで、隣近所や職場の仲間、趣味やお稽古ごとのグループ単位で「ヌチャーシー」と呼ばれる行楽が盛んに行われます。
会費を出し合ってご馳走をこしらえ、野や山へ出かけたり、「ヌガリブーニー(流れ舟)」を仕立てて海に漕ぎ出したりと、春三月はまさに女性たちが晴れて自由に楽しめる月です。「今日はこのグループ、明日はあの団体」と、催しが続く光景も見られました。
娘のヌチャーシーに父親が口出ししようものなら、「ヌチャーシー人衆(ニンジュ)」から即興の歌でやりこめられてしまうという風習もあったほど。大正時代には、太鼓の音が昼も夜も村中に響いていたといわれています。
三月は普段は家庭を支えるヤーヌターリー(家の大人)たちの威厳が、この時ばかりは地に落ちる月でもありました。
この風習の背景には、漢代の中国で女性の慰労の日として、毎月七日と十九日に酒食を用意して女性だけで楽しむ日が設けられていたことも関係しているようです。陰の性である女性が陽の数である奇数を得て、心身の調和を図るという思想があったともいわれます。古くから続く知恵が、久米村の暮らしの中にも息づいています。
ウシーミー(御清明祭)
ウシーミー(御清明祭)は、清明の節に入ってから行われる行事です。清明は、春分から数えて十五日目、または冬至から百五日目にあたる節句で、陽暦では四月五日前後、陰暦では三月四日ごろになります。中国では、この行事を「掃墓(そうぼ)」または「掃祭(そうさい)」と呼びます。
久米村でも、祭りの前日や当日には墓の掃除が行われ、同姓の一族が先祖の墓所に集まります。御三味(ウサンミ)、餅、菓子、果物を盆に盛って卓に並べ、香を焚き、燭をともし、酒を奠(そな)え、紙銭を焚いて拝礼します。そして供物はその場で料理され、宴が催されるのが久米村の御清明祭の大まかな流れです。
この御清明には、「ムンチュウウシーミー(門中御清明祭)」と「ヤーヌウシーミー(自家の御清明祭)」の二通りがあります。
門中御清明は「ムートゥノウシーミー」とも呼ばれ、本来は清明の「入日(イリヒ)」に執り行われていましたが、現在では多くが最初の日曜日に変更されています。これは、参詣人の多くが仕事の都合上日曜が都合が良く、また学生や生徒も参加しやすいためです。
久米村人(クニンダンチュ)の中には、具志川、読谷、北谷、あるいは山原まで田舎下り(寄留)している家庭も多く、遠方から参加する親戚たちは、前日または数日前から那覇に出て、泊まりがけでウシーミーに参詣していました。ちょうど製糖期と重なっていたため、砂糖問屋との商談を兼ねることもあったようです。
「ウサンミ(御三味)」の語源は明らかではありませんが、その内容は、①皮付きの豚肉の塊(四〜五斤)を茹でたもの、②シルイユやマチノイユなどの魚(四〜五斤)を尾頭付きのまま蒸したもの、③成鶏の雄(内臓を取り除き、首をもたげたしゃがみ姿)の三品を、それぞれ別々の盆に盛って墓前に供えるのが久米村の伝統です。
餅は「ウサンミ餅」と呼ばれ、通常の餅よりやや小さめのものを一人あたり五個ほど配ります。また、ウサンミは二十五年忌・三十三年忌の「ウフウスコー(大法事)」にも欠かせない供え物です。
果物は季節のものが選ばれますが、ちょうど山ももの時季でもあり、「ヒージャ重箱(七十センチ角・深さ六十センチの大型重箱)」に詰められます。参詣者は年によって異なりますが、通常百七〜八十人ほどが集まります。
久米村の宗家(ムートヤー)の墓は、ほとんどが御拝領墓で、広さは六〜七十坪にも及びます。祭りの日には、その墓域を越えて城外にまで人が溢れるほどの賑わいとなり、参詣人の多さが一種の誇りでもありました。
拝礼が終わると、若者たちが使役として立ち働き、庖丁を取り、供えられた三牲を酢醤油で調理し、参詣者全員に平等に配膳します。参詣者は餅とウサンミをいただいた後、三々五々と散会していきます。
当日の世話人(ムイメー)や使役に当たった若者たち、そして有志の人々は、御清明御物(御清明祭の基金)から支出される慰労費に加え、若干の会費を添えて、晩には旧交を温める慰労会を開くのが恒例です。
ヤーヌウシーミーは、門中御清明祭が終わった後、吉日を選んで行います。近親者や親戚、縁故者を招いて執り行うもので、供え物にはウサンミの三牲に加え、昆布イリチー、ジューシー、そして多種多様なお菓子が並びます。特に近しい人には、自慢の菓子を所望して作ってもらうこともありました。
当日は朝から墓所に紺染めの定紋入り幕を張りめぐらせ、石で「シキガマ(三つ石のかまど)」や七輪(木炭コンロ)を設けて湯を沸かす準備を整え、芝生の上で一日ピクニックのように過ごします。
若狭町の上のモーや辻原の墓所周辺では、清明の時期になると物乞いが普段よりも多く集まり、その応対もひと苦労でした。中には、名の知れた顔役のような者にお供え物を一通り与え、他の者たちを取りまとめてもらうような場面もあったそうです。
昭和初期のウシーミーで必要とされた供物の価格を見ると、魚(トビ魚十尾)三十五銭、豚肉は一斤二十銭、餅一個一銭、鶏(雄鶏)は一羽一円五十銭、米一俵六円五十銭という、今では想像もつかない物価の記録が残されています。
ウビナリー
三月のウビナリーは、城岳(グシクダケ)への拝み(ウガミ)を指します。門中や家ごとに吉日を選んで行われますが、あらかじめ定められた日に執り行う門中もあります。
基本的な形式や作法は、正月のウビナリーと同様です。春の節目にあたり、祖霊への感謝を込めて祈りを捧げる、久米村に息づく静かな信仰のかたちです。